狂人日記

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僕の鬱について

文字通り誰の得にもならない記事(僕の得にはなるか)ですが、形だけでも発信すると、そのぶん鬱が発散されるような気がして少し楽になるので、勝手させてください。長い独り言。読まなくていいです。読まなくていいですって言うと読んで読んで!!!みたいに取られるかもしれませんが、ほんとにここに書くだけで気が紛れ、そのためだけに書いてるので、読んでもらうことを目的にしてません。文章化すると見通しがつくし、その文章を人に見てもらえる場所に置くとそれだけで自分が認められた気分になるんです。

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僕の鬱を形容するには、「圧迫」という言葉が相応しい気がする。圧迫感。人生の先行きが塞がれているのに、時は淡々と流れていくので、まるで強制スクロールで壁に挟まれて死ぬマリオのような気分になる。実際何度か押しつぶされて一機を失い、それでもゲームオーバーを避けるため、睡眠という1UPキノコを取り続けている状態、そう言っていいと思う。

先行きが塞がれていること、正確にはそう感じることに僕の鬱の原因があるなら、何故そうなったのか。自分で分析してみる。まず、目先の受験勉強が辛くて、その先のことが考えられない。そもそも去年までにいっぱい勉強して、もうその時点で燃料切れだった。今年完走する気力は、はなからない。その上僕は東大に行きたいわけじゃない。東大以外が嫌なだけ。それも、麻布のみんなが東大だからという単純で浅はかな理由で。そんな負の動機でどうにかなるほど東大受験は甘くない。そして、確かに東大でしたい勉強があるって言った覚えはあるけど、ここにもっと根本的な鬱の原因が、僕の進む道を覆い尽くす霧があった。

自己欺瞞」。僕の全てが欺瞞に満ちていて、そしてその事実を欺瞞という言葉で限定してしまったこと。これが全ての始まりで、希死念慮の正体だった。

「東大行って哲学や言語学を勉強したい」。「受験勉強そのものにやり甲斐を感じている」。これらをはじめとする僕の一挙手一投足が、自らというキャラクターを彩るため、無意識ながら意図的に「そうあるべきだ」と仮定し、あたかも本心かのように盲信してきた。という、その事実に気づいてしまった。実は東大に入ったところで心からやりたいことは何一つとしてない。虚脱感が身を襲うようになったのは、間違いなくこの欺瞞を自ら暴いてしまってからだ。

不幸中に幸いはなく、どころか不幸がもう二つ。一つは、僕の勉強の動機は、いつだって欺瞞から始まっていたこと。その欺瞞が打ち砕かれ、動機そのものがほとんど消滅してしまった。今までの僕には、「自分には東大しかないんだ」、この根拠のない至上命題が常に頭を占めていた。そして自分の体に鞭を打ち、誰よりも苦しむことそれ自体に自己憐憫に浸り、そしてそんな自分に自己陶酔していた。この欺瞞・憐憫・陶酔の3ステップが、実は東大に行く気はない僕の、大きなモチベーションだった。虚栄的、というか空虚な動機付けだが、そもそも東大への志向性がほとんどなく、あってもそれも欺瞞に過ぎなかったので、当然のことだと思う。東大で勉強をしたいというのは欺瞞で、僕は学歴を必要とする職に就く気は一切ないのだから。じゃあ何をして生計を立てるのかって、それもまだ未確定。

そしてこの怠惰を熟慮していたら、二つ目の不幸、そして受験への忌避感に留まらない希死念慮の正体に思い至った。僕は受験への欺瞞だけでなく、人生の欺瞞さえ暴いてしまったのだ。実は僕は、生きがいを何一つして持っていないことに、気づいてしまった。まんがタイムきららやアニメ、この唯一の趣味さえ欺瞞、すなわち自己を確立するために好きだと仮定した虚構の娯楽なのだと、腑に落ちてしまった。その他もろもろ、あらゆる感情・神羅万象に虚無を見出してしまう。もう生きる意味ないじゃん。楽しいこともないのに、社会の荒波に自分から突っ込んで行き、東大生とか早慶生ばかりいる中で65歳まで無限の競争を続けるのか?社会性への忌避感がいっそう将来を不安にさせる。全てが欺瞞に満ち、心から好きなものが何ひとつない僕には、特殊な職にもつけないだろう。サラリーマンも無理だし、なんか他のすごそうな職業も精神的な内実が伴わないし、じゃあそんな辛い思いをして日銭を稼ぐ意味はあるのか。それは死の恐怖から逃避するためだけじゃないのか?死の恐怖から逃げるためだけに、今後死ぬまで、今と同じような思いをしながら労働に明け暮れなければならないんじゃないか?なら、死後の世界がないと仮定するなら(僕には宗教心がほとんどない、あるとすれば科学・理性信仰に近い何かだし、そんな中途半端に衒学的な自分に嫌気がさす)、勇気を出して死んでしまった方が、ここから単調減少するだろうQOLは相対的に高いまま生涯を終えるのではないか?いや、じゃあ残された家族はどうするんだ。家族が僕を愛していないというのは、それこそ憐憫に浸るための欺瞞でしかなく、彼ら彼女らは僕のことを愛してくれている。その涙を僕は無視するのか?いや、でも死んだ瞬間に僕の認識すなわち僕にとっての世界は終わり、………このように、将来への怠惰について考えていると、それと絡みつくように死の概念が僕の脳を占領し始める。希死念慮を概念でしか知らない人、概ねこの仮定そのものが希死念慮、のはずです。僕は希死念慮ビギナーなので断言して良いのかわからないけど。

ともかく、こうなったらもうダメ。少なくとも今は必死にこの事実は考えないようにしてて、というかこれを考えていると本当の本当の本当に頭がおかしくなって、マジで自殺したい以外の感情が湧かなくなってしまうから、とにかく全精力を振り絞ってこの「二つ目」から目を逸らし、なんとか立ち向かうのは「一つ目」だけにとどめようとしている。それでもふとこの事実が頭をよぎると、息切れと動機がはじまり、時には嘔吐感さえ覚え、性欲や食欲などあらゆる動的志向性が減衰してしまう。布団に篭って眠りにつき、寝起きの頃には目を逸らせるようになっていることを祈るのが、自分にできる目いっぱいの抵抗。眠ることすら難しいんだから、ましてや勉強なんて、そんな時にできるわけがない。てか、そんな時にしても意味ないし、さらにいえばそんな精神状態で勉強してると、今度は「二つ目」に後押しされた「一つ目」に押しつぶされそうになる。この二重の圧迫感から逃げるには、やはり眠るしかない。

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という感じで、ひたすら寝てます。幸い「二つ目」にさえ目を向けなければ、とにかくここまで頑張ったんだから、欺瞞でも何でもとにかくあとちょっとの時間やりきってやるぞ、という新たなモチベーションが「一つ目」と拮抗し、その波の上下によって勉強できる時もあります。受験鬱のなかでも、まだ軽傷の部類に入るのでしょう。ただ、波が「下」に来た時はそんなモチベーションは虚無的な欺瞞だと棄却され、「二つ目」に怯えて眠るしかなくなります。睡眠障害がなくて本当によかった。てかあるじゃん、不幸中な幸い。まあ、とにもかくにも、僕の鬱はこんな感じなんです、という文をここにばら撒いたことで、ガス抜きになりました。愚痴に近い仕組みなんでしょうね。あそこまでいったのにここまで読んでくれた人がもしいたとしたら、おそらくあなたを少し暗い気分にさせてしまったでしょうが、そのかわりに僕の気は少し晴れました。ありがとうございました。